Case.10 山口県立総合医療センター へき地医療支援センター センター長 原田昌範

へき地にも平等な医療の選択肢を

山口県のへき地医療の仕組みづくりに邁進する原田昌範先生のストーリー

※このページに掲載されている情報は取材当時のものです

山口県立総合医療センター へき地医療支援センター センター長

原田昌範

自治医科大学を卒業後、山口県立総合医療センターでの初期研修を経て、岩国市立錦中央病院、周南市国民健康保険鹿野診療所で勤務する。その後、萩市大島診療所で離島医療に従事し、山口県のドクタープール制度の第一号として本格的にへき地医療への道に進む。2011年から山口県立総合医療センターへき地医療支援部(現:へき地医療支援センター)で勤務を開始し、現在山口県のへき地医療の仕組み作りに尽力している。

家業を継ぐか、医師になるか

商店を営む両親の長男として生まれた私には、身内に医師は誰一人いません。
家業を継ぐか、医師になるか そんな私が医師を志したのは、小学5年生の頃に放映されていた「いのち」という大河ドラマがきっかけです。主人公が、最終的にへき地医療に携わる物語で、私は医師という仕事にすっかり魅了されてしまいました。そして、小学校の卒業文集には「将来は医師になりたい」と書いています。

しかし、私は商売人の息子です。両親からは、将来は店を継いでほしいといわれていたので、大学の志望校の欄には商学部や経済学部と書きつつも、やはり医師になる夢は捨てきれず、第三志望にはいつも「医学部」と書いていました。
そんな高校2年生のある日、父親から「そこに座れ」と言われ、店を継ぐよう改めて説得されます。しかし、医師になることを諦めきれなかった私は「やっぱり医学部に行きたい。医学部に入ってもしうまくいかなかったら、そのときには店を継ぐ」と父親を説得し、医学部を受験することになったのです。

自治医科大学に入学

いよいよ受験のとき、私は地元の山口大学医学部を受けるか、自治医科大学を受けるかで悩んでいました。自治医科大学の入試の制度上、自治医科大学に合格したら、山口大学医学部を受験することはできなかったのです。
自治医科大学を志望していた理由を正直にいうと、へき地医療ができるから、というよりも、学費がかからないので両親に経済的な負担をかけなくて済むから、という理由のほうが強かったです。
ただ、自治医科大学に合格したときには、「やはり神さまが自分にへき地医療をやれと言っているんだ」と思いましたし、父親からも同じことを言われたことは記憶に残っています。
そして今になって思うのが、父親はへき地の生まれで、息子がへき地医療を守るために医者になることを応援してくれていたんだろうなと思います。

生まれて初めて知る、へき地の医療

生まれて初めて知る、へき地の医療

自治医科大学では、毎年夏休みに地元に戻り地域医療実習を行います。大学1年生の夏休み、私の実習先となったのが山口県萩市にある大島という離島で、そこは私が卒業後に勤務することになる島でした。
街中の商店街で生まれ育った私にとって、初めて触れるへき地の医療は、非常に印象的なものでした。島の人たちと触れ合ったり、先輩と夜な夜なへき地医療について語ったりしているなかで、「将来、自分はこういう場所で仕事をするんだ」と、初めて肌で実感したのはこのときでした。

研修医2年目で経験した初めての訪問診療

自治医科大学を卒業後は、それぞれが自分の出身都道府県に戻り、9年間地域医療に従事しなくてはいけません。自治医科大学を卒業した私は、山口県立総合医療センターで2年間初期研修を行いました。
外科で研修を受けていた2年目、当時担当していた末期がんの患者さんが在宅医療を受けることになり、私は院長先生のお達しで初めての訪問診療を経験することになりました。

「家にいるときと病院にいるときでは、こんなに表情が違うのか…」

初めての訪問診療で感じた気持ちは、いまだに鮮明に覚えています。訪問診療が患者さんにとっていかに大切かを研修医時代に実感することができたのは、私にとって非常に貴重な経験でした。

外科医への憧れ−恩師との出会い

自治医科大学に入学した頃から、「へき地医療に従事していく」という覚悟はあったものの、いろんな医師の姿をみるなかで、心のどこかでは違う道に進んでみたいと思うこともしばしばありました。
私の気持ちが大きく揺れたのは、研修医2年目に中安先生という外科医のもとで1年間外科の研修を受けていたときでした。
中安先生は、患者さん一人ひとりをとても大切にする方で、朝早くから夜遅くまで熱心に患者さんの診療を行っていました。外科医としてだけでなく、患者さんへの説明の仕方、話し方など、私に医師としての基礎を築いてくれました。
中安先生のもとで手術をしたり、救急の外傷をみたり、小児外科をやったり…外科での研修は毎日とても充実していて楽しいものでした。
「外科医になれば、中安先生のもとでもっと勉強ができる」
私の気持ちは、へき地医療を行う総合医と外科医との間で、大きく揺れ動いていました。

祖父を看取った経験がターニングポイント

祖父を看取った経験がターニングポイント 2年の初期研修が終了したあとは、岩国市の山間部にある錦中央病院で3年間内科を担当しました。その後、6年目には山口県立総合医療センターで1年間外科のトレーニングを行い、外科専門医を取得しました。
外科医へ憧れを抱いていた私をへき地医療の道へと進めたのは、7年目に赴任した周南市の鹿野診療所での出来事でした。

周南市は私の父親の生まれ故郷で、私はたまたま祖父の主治医になりました。祖父は脳梗塞の後遺症で麻痺があり、誤嚥性肺炎で入退院を繰り返していましたが、入院するたびに「家に帰りたい」と訴えるため、在宅医療を行うことになったのです。

私自身、医師として在宅医療の経験はありましたが、家族としての在宅医療は初めての経験でした。そのなかで身をもって知ったことが、医師が在宅医療にかかわる時間はほんのわずかで、家族によって支えられている時間が非常に長い、ということ。そして、家族の負担を軽減するためには、訪問看護師やケアマネジャーが介入できる仕組みが大切だと改めて実感したのです。

最期、祖父は生まれ育った家で家族全員に見守られながら、息を引き取りました。今の時代、特にへき地において、家で死ぬことはとても難しいことです。
「なぜ、祖父は生まれた場所で死ぬことができたのだろう」と考えたとき、医師がへき地に来る仕組み、そしてへき地医療を維持していく仕組みが非常に大切だということに気付きました。

人によっては、病院で死にたいという方もいます。しかしそうは言っても、そのときの気分や病状によって、やっぱり最期は住み慣れた場所で迎えたいと思うこともあるでしょう。
そんな風に気持ちが変わったとき、「へき地だから」という理由で、家で死ぬという選択ができないのではなく、どこに家があっても同じような選択をさせてあげたい、と祖父を看取った経験によって強く思うようになったのです。

へき地のための仕組みづくり

へき地のための仕組みづくり 鹿野診療所で2年間の勤務を終えたあと、大島で勤務をすることになります。
大島に赴任した日には、島に住むたくさんの人たちが、背広を着て私たち家族を出迎えてくれました。大島のテレビ局も取材に来ていて、私が赴任したニュースはなんと1週間にもわたり放送され続けました。
私がこれほどまでに歓迎されたのは、大島がかつて医師の確保に難渋した歴史があったためです。そして、その状況を変えたのが、自治医科大学の医師派遣制度でした。このような「仕組み」があって、大島の医療はこれまで守られてきたことを実感し、私はその仕組みをこれからも守り、発展させていかなくてはいけないのだと強く思いました。

大島で1年間勤務し、卒業後9年目を迎えたとき、山口県からドクタープール制度を提案されました。外科医になることも、最後の最後まで悩みましたが、最終的にはドクタープール制度の第一号として、へき地医療を続ける道を選びました。
その理由には、祖父を看取った経験ももちろんありましたが、私自身がへき地で苦労した経験も多かったことから今後は後輩たちを助ける側に立ちたいという理由もありました。
しかし、そのことを妻に話すと、こんなことを言われたのです。

「後輩のための仕事なら私はへき地にはついていかない。でも、へき地のための仕事なら私はついていく。」

確かにすごく大事な考え方だと、妻の言葉にハッと気付かされました。
私自身もそうでしたが、後輩の立場にいると、どうしても先輩に対して自分都合の要求をしてしまうこともあります。もし、「後輩のため」という気持ちでへき地医療を選んでいたら、何か要求を受けたとき、それがへき地のためにならない要求でも、受け入れてしまっていたことでしょう。しかし、それでは「へき地のため」という本来の目的を見失ってしまいます。

そして私は今、へき地のための仕組み作り、診療支援、次世代の育成に取り組んでいます。
本州最多、21の小規模有人離島(人口1000人未満)がある山口県では、どのような基準で、どの島に常勤医を配置するかなど、難しい問題を多く抱えています。解決すべき多くの課題に直面しながら、へき地医療を守っていくために日々邁進しています。

*ドクタープール制度…自治医科大学を卒業した義務年限明け医師を県職員として採用し、県内の公的医療機関等に派遣する制度

患者さんの最期にどう寄り添うか

私が今後取り組んでいきたいと考えていることが、「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」です。これは、人生の最期をどう過ごしたいかを、かかりつけ医を含めて日頃から事前に話し合うことです。

昨年、祖母が亡くなりました。祖母は、祖父と同じように家で死にたいと言っていたのですが、その要望を叶えてあげることができませんでした。鹿野診療所に常勤医がいなくなってしまい、十分な在宅医療を受けることができなかったためです。
このとき、「医療はこんなに進歩しているのに、家で死にたいという最期の願望に応えてあげられないなんて、医療が本当に進歩しているといえるのだろうか…」と痛感したのです。
家族に迷惑をかけたくないがために、病院で死にたいと言う方は多くいます。しかし本当の気持ちは、家族と一緒に過ごした我が家でゆっくり死にたいと思っている方が多いはずです。

先進的な医療ももちろん大切です。しかし、それ以上に一人ひとりの患者さんがこれまで生きてきた物語や生きがい、価値観などを紐解き、最期をどう迎えるかを一緒に考えることが、医師としてやるべきことだと思っています。

恐れず、へき地に飛び込んできてほしい

若い先生方は、これから先、どんどんいろんなことにチャレンジしてください。そして、ときどき立ち止まって、自分がなぜ医師になりたいと思ったのかを振り返ってみてください。
へき地医療をやってみたいと思っている方は実は多いのではないでしょうか。2〜3年の一定期間であり、困った時のサポートがあり、代診や後任がちゃんと来れば、へき地でチャレンジしてみたい、貢献したいと思っている方もいらっしゃると思います。さまざまな工夫やアイデアは、すべて揃っていないからこそ生まれます。足りない環境だからこそ、関係者が協力しあい、強みを活かし、得られる経験があります。患者さんやその家族との距離が近く、その方の暮らしや繋がる地域に関わりを持ちながら医療に携わることができるのは「へき地医療」の醍醐味です。
へき地医療支援センターのメンバーは、全員、「へき地医療」の経験者です。そんな私たちがサポートしますので、へき地医療に少しでも興味がある方は、ぜひ飛び込んでほしいと思います。将来日本が直面する課題をいち早く経験できると思います。

恐れず、へき地に飛び込んできてほしい

Case.9 南那須地区広域行政事務組合立 那須南病院 統括管理監 関口 忠司

地域医療には、望まれることに応えられるという楽しさがある

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