Case.11 地域医療振興協会
女川町地域医療センター
副センター長(兼)老人保健施設長 庄司勝

頼りにしてくれる町の人々にずっと寄り添っていたい

“縁の下の力持ち”として女川町の医療を支え続ける庄司勝先生のストーリー

※このページに掲載されている情報は取材当時のものです

地域医療振興協会
女川町地域医療センター
副センター長(兼)老人保健施設長

庄司勝

東北大学医学部卒業。初期研修終了後は外科医を志し、東北大学第二外科に入局し、食道がんの治療と研究を行ってきた。2010年に女川町立病院(現:女川町地域医療センター)の副院長に就任。就任から1年後に東本大震災を経験し、その後の復興に尽力する。2018年現在は病院での業務に従事しながら、併設する介護老人保健施設での管理医師も務める。

医師を目指し、東北大学医学部へ進学

私が医師を目指そうと思ったのは、高校生の頃でした。身近に医師がいる環境で育ったわけではありませんが、いつからか「医者ってやりがいのありそうな仕事だな」と漠然と思い始めた私は、東北大学医学部へ進学することになります。
大学時代は、「医学部に入った」というよりも「サッカー部に入った」といったほうがふさわしいほど、サッカーに熱中していた学生生活を送っていました。

卒業後、外科医としてのキャリアをスタート

大学を卒業後、初めての勤務地となったのは山形県長井市にある長井市立総合病院(現:公立置賜総合病院)でした。長井市は、いわゆる「へき地」と呼ばれる地域でした。そのため、病院での診療以外に、医療が十分に整っていない近隣の町や山奥などへ出向き巡回診療を行うこともありました。
昔から手先が器用で細かい作業が好きだったこともあり、外科医を志した私は3年間の初期研修後、東北大学第二外科に入局します。食道がんの治療と研究を行うグループに所属し、東北地域のいくつかの中核病院で外科医としての臨床経験と積んでいきました。

同じ場所で同じ患者さんにずっと寄り添っていたい

外科医として診療を行う中、私が大切にしてきたことは「自分が手術をした患者さんは、最初から最後まで責任を持って診ていく」ということです。
外科医の仕事は手術をすることだけではありません。術前と術後のフォローアップも外科医の大切な役割です。特に悪性腫瘍の場合は治療期間が非常に長くなるため、患者さんとも親密かつ長いお付き合いをしてくこととなります。
しかし医局の人事で、勤務していた病院を異動しなくてはならないとき、それまで長く付き合ってきた患者さんとも離れなくてはいけません。
そのような場面で、今でも忘れられない患者さんからの言葉が、「先生にはずっとこの病院にいてほしい」という言葉。時には涙を流して別れを惜しんでくれる方もいらっしゃいました。
その度に患者さんには心から申し訳ない気持ちでいっぱいになり、医師を続けていくにつれて、「できればずっと同じ病院で患者さんをみていきたい」という思いが強くなっていきました。

女川町立病院への異動

石巻赤十字病院で外科医として勤務をしているとき、女川町立病院(現:女川町地域医療センター)の院長と副院長が同時に退職したため、医局の要請で女川町立病院で働くことになりました。
女川町立病院での医療は、それまで行ってきた医療とは大きく違うものでした。たった1人の外科医でしたので大きな手術はなく、小さな外傷の処置や手術が主な診療内容でした。
また、同時期に院長として赴任されてきた齋藤充先生の主導のもと、病院を大きく作り変える計画が進んでいました。2011年4月からは、地域医療振興協会に運営委託し、「女川町地域医療センター」として病院の体制が大きく変わる予定でした。
しかしそのような最中、2011年3月11日に東日本大震災が発生したのです。

女川町を襲った東日本大震災

地震発生時、私は病院の2階にいました。窓の外をみると、見慣れた女川町の景色はなく、建物や車などが津波によってぎしぎしと押し流されていました。
眼下を望むと、病院のすぐそばまで津波が押し寄せている光景がみえたため、私は急いで1階にいる人々を助けるために階段を駆け降りようとしました。
するとその瞬間、真っ黒な津波が正面玄関のガラスを押し破り、病院の中へばしゃーっと流れ込んできたのです。その波に飲まれた私は意識を失い、気がついたときには階段の手すりにしがみついていました。
そこからは院長の齋藤先生や病院のスタッフと、院内にいる患者さんや避難されてきた方々の処置にあたる数日間が始まりました。院内で津波に飲まれた方々の処置を行っていた震災当日の夜には、近隣の住宅でサッシに足を挟まれて動けなくなっている方がいるとの連絡が入りました。町にはまだ津波が何度か押し寄せていましたが、数時間かけて病院スタッフと協力しながら救助に向かいました。その夜、病院には約700人の住民が避難していました。

ライフラインがすべて途絶え医療資源も限られる中、医療を続けた

震災直後は病院の自家発電が使用できていましたが、翌日からは自家発電も停止し、電気・ガス・水道、すべてのライフラインが途絶えました。妊婦さんや透析患者さんは自衛隊のヘリコプターで設備の整った病院へ搬送してもらい、そのほかは血圧計と聴診器という限られた医療資源の中で何とか診療を続けました。
また、通信手段もなかったため、石巻市にいた私の家族や家がどのような状態となっているのかもまったくわからず、精神的にも緊迫した状態が続いていました。
そのような状態が続いていた震災から3日後の3月14日、地域医療振興協会所属の医師が女川町へ支援に来てくれたのです。3月15日からは、たくさんの物資とともに、全国から多くの地域医療振興協会の職員が駆けつけてくれて、私たちに「ゆっくり休んでください」と声をかけてくださいました。
斎藤先生や私をはじめ、診療に尽力した病院スタッフ全員は、その多くの支援にどれだけ心が救われたことか。地域医療振興協会からの支援には心から感謝しています。

地域の方々に頼りにされることが活力となる

震災から約半年後の2011年10月、当初の予定より半年遅れで女川町立病院は「公益社団法人地域医療振興協会 女川町地域医療センター」に生まれ変わりました。2018年現在、有床診療所19床、介護老人保健施設100床で運営しています。
私は、今も外科医として病院での診療にあたりながら、介護老人保健施設の管理医師として入所されている方々の健康維持を行っています。特に、介護老人保健施設の皆さんが私を頼りにしてくださっていることが、この町で医師を続けていく大きな活力となっています。
介護老人保健施設は病院と同じ建物にあるため、入所されている方々とはいつも一緒にいることができますし、何か異常があった場合にはすぐに駆けつけることもできます。
これからも、女川町の人々に安心感を届けることが私の大切な役割だと思っています。

縁の下の力持ちとして、女川町の医療を支えていきたい

正直なところ、女川町へ赴任した当初、私には地域医療に対する強い想いや信念はありませんでした。今も、女川町の医療を守っていきたいという思いはあるものの、「女川町の医療をこう変えたい!」というようなはっきりとした信念があるとはいえません。
当院の院長である斎藤充先生は、女川町の皆さんにより良い医療を届けるために、行政などと協力しながら、女川町の医療体制の整備に日々尽力されていらっしゃいます。そんな斎藤先生が目指している女川町の医療を、“縁の下の力持ち”のような存在として後方から全力で支援することが、女川町の未来を守るために私ができることだと考えています。

縁の下の力持ちとして、女川町の医療を支えていきたい

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