総合内科的視点の習得で、内科医としての安定した土台作りを
練馬光が丘病院 副病院長新井 雅裕
指導医インタビュー
このページに掲載されている情報は2020年02月04日取材当時のものです
市立恵那病院 産婦人科 副管理者
伊藤 雄二1985年に自治医科大学医学部を卒業後、長崎県の対馬および五島列島の産婦人科医療を担う。1995年からは、“対馬に産婦人科を開設してほしい”という要望から、佐賀大学医学部附属病院で研修を受ける。2002年からは、西吾妻福祉病院にて副院長、2009年には同院の病院長として勤務し、吉新 通康先生からの電話がきっかけとなり、恵那市に渡ることを決断。2015年に地域医療振興協会に総合診療産婦人科養成センターを開設し、分娩管理を含む産婦人科医療に対応できる総合診療医の育成に励む傍、2017年からは市立恵那病院にてお産の受け入れを開始し、地域の産婦人科医療に貢献できるよう尽力している。
私の生まれは、長崎県の島原市です。中学生の頃の私は、工学系など理系の分野に進むことを夢見ていました。私の家族には医療系の職に就いている人はおらず、教育系の職に就いている人が多かったため、医学部に入学することは考えたこともありませんでした。
そんな私が高校受験を控えた中学3年生の時、父が亡くなりました。「父のように亡くなってしまう人を減らしたい」と思った私は、父の死をきっかけに、医学部への進学を考えるようになりました。
「産婦人科の医師になりたい」私がそう思ったのは、自治医科大学の5年生になった時でした。その理由としては、自治医科大学の産婦人科の教授が、私の出身と同じ長崎の方で大変お世話になったからということに加え、産婦人科には、ほかの診療科とは異なる側面があることに惹かれたからです。内科や外科であれば、具合の悪い方が病院にいらっしゃって、元気になって帰られます。しかし、産婦人科には、元気な方が病院にいらっしゃって、出産して元気な状態で帰られます。もちろん、元気な方ばかりではないですし、なかには緊急の対応が必要なこともあります。また婦人科に関する病気の場合には、異変を見つけた患者さんの治療をして、さらには治療後のフォローも担います。このように、産婦人科では、さまざまな状態の患者さんを診察する機会があり、かつ、内科的な面だけではなく、外科的な面からの診療も必要であるという特徴に惹かれたため、産婦人科医になることを決意したのです。
私は自治医科大学卒業後に義務年限内のへき地勤務として、離島である対馬で勤務することになりました。その時の役割のひとつが対馬に産婦人科を開設することであり、勤務予定の病院がバックアップしてくださったこともあって佐賀大学医学部附属病院での研修後、産婦人科開設の準備を進めました。実は、私が医学部生の頃から、そのような話が持ち上がっていました。それは、医学部生時代の夏季研修のワークショップに参加したとき、とある先生に「対馬にとって産婦人科は必要で、我々が出来ることはバックアップするから、対馬で産婦人科をやってくれないか」と声をかけられました。今思えば、学生だった私にそのような話がくるのは、とても貴重なことだったように思います。
私が対馬の病院で診療している時に、重症の双子の赤ちゃんの分娩に立ち会う機会がありました。対馬や五島列島のような離島では、重症の患者さんに対する適切な治療が難しいため、高次医療機関である長崎医療センターなどへ紹介や搬送していました。このときは、同じくらいの妊娠週数の2人の双子の重症の妊婦さんがいたため、妊婦さんのうち1人を長崎医療センターの総合周産期母子医療センター(当時の周産期センター)に搬送し、もう1人は対馬の病院で管理して分娩となりました。その赤ちゃんたちは、大変重症で出生時も予断を許さない状態でしたが、病院の小児科や外科の先生方から力をお借りし、どうにか助けることができました。
双子の赤ちゃんは順調に成長し、今では30歳を過ぎています。中学生くらいのときまで、毎年欠かさず写真入りの年賀状をいただいていて、そのたびに「助けることができてよかった」と安堵したことを思い出します。やはり、元気になって退院された患者さんから手紙や年賀状などをいただけるのは、とても嬉しいですね。
「伊藤ちゃん、恵那をよろしくね」これは、地域医療振興協会の理事長である吉新 通康(よしあら みちやす)先生からの留守番電話です。あとからその留守電を聞いて、あれほど驚いたことはなかったでしょう。
2007年5月に、岐阜県恵那市にたったひとつしかなかった産院が閉院となって以降、恵那市には、分娩可能な産婦人科がありませんでした。分娩再開を求める地域の方々の声に市が耳を傾け、長年にわたり、協会と市との間で産婦人科の重要性の話し合いが行われた末に、ようやく設置が決まったところでした。
吉新先生からの依頼を受けて、私は準備をはじめ、2015年には地域医療振興協会に総合診療産婦人科養成センターを開設しました。このセンターを開設した大きな目的は、分娩管理を含む産婦人科診療が可能な総合診療医の養成に取り組むことです。そして、その実践の場が、市立恵那病院でした。当時勤務していた西吾妻福祉病院や東京ベイ・浦安市川医療センターを行き来しながらの準備だったので少々大変でしたが、ようやく2017年の秋から市立恵那病院でお産を始めることが出来ました。
しかし、その矢先、新たな壁が立ちはだかりました。それは、ほかの診療科にお産について理解していただくこと。市立恵那病院での産婦人科開設当初、もちろん病院として産婦人科が始まることは歓迎されていて、スタッフからもできることは協力すると言われてはいましたが、どことなく、「産婦人科のことは、産婦人科でやればいい」というような雰囲気があったのです。その雰囲気をどう打開するかを考えていたある時、1人の超緊急帝王切開の患者さんが運び込まれ、その方を救うために、外科をはじめとしたほかの診療科の先生やスタッフに助けていただきました。そこで初めて病院のスタッフに産婦人科医療のことを理解していただけた気がしました。たしかに、産婦人科は、独特な診療科でしょう。しかし、「産婦人科は、ほかの診療科とは別だよね」とみられていたことが、「病院全体で協力しなくてはいけない診療科である」ということに気付いてもらうことができました。このことは、私が産婦人科医療を提供するうえで、今でも大きな助けになっています。
私の将来的な目標は、家庭医や総合診療医の中にお産をとることができる医師を増やし、さらには産婦人科医のサポートのもと家庭医や総合診療医が産婦人科と協働して周産期医療に携わる仕組みを築くこと。
それには、産婦人科の診療分野には専門性が高いところもあるので、まずはそこを理解してもらうことが大切でしょう。手術ひとつとっても腹腔鏡手術もありますし、緊急時の手術もあります。さらに、ハイリスク妊娠に対する対応も重要なことだと思います。次に、それらを理解していただいたうえで、ウィメンズヘルスといった女性のプライマリケアに興味のある家庭医や総合診療医に対してトレーニングの機会を広め、そのうえでお産に関わってみたいという家庭医や総合診療医にはさらにトレーニングを積んでいただく。それが、私の目標を実現する第一歩だと思っています。
そして、今後は医師だけでなく、コメディカルの方にも産婦人科の領域に関わってもらう職種が増えると思います。最近でいえば、理学療法士がよい例でしょうか。アメリカでは、すでに産科にも理学療法士が介入を始めていますし、日本でも両親学級に参加している施設もあります。
これからも、日本の医療を担う若い方たちの教育に積極的に関わっていき、産婦人科領域において必要なことをさまざまな形で発信していきたいですね。
近年は、新たな専門医制度がはじまり、これまでよりさらに細分化された各科専門医を目指す方が多いように思いますが、医師の生き方にもいろいろな生き方があります。もちろん、専門医制度の中できちんと専門的な知識を積み上げていくことは大切です。それをダメだとは言いませんし、必要なことでもあります。しかし、私はひとつの生き方として、地域の中でニーズに合わせてトレーニングを積むというようなことが実践できるような場があってもよいのではないかと思うのです。
離島やへき地など地域医療の現場に行くと、「自分が出遅れてしまうのではないか」とか、「新しい情報が手に入らないんじゃないか」とか、心配している方もいるでしょう。しかし、自分の今やるべきことを考えたり、患者さんに必要な情報に対するアンテナを張ったりするといった医師としての感性は、地域に出てこそ磨かれると思います。今は、インターネットを利用して、手軽に新しい論文を手に入れることもできますしね。今の時代、地域やへき地で働くことは、決してディスアドバンテージではありません。
私は、今までさまざまな地域やへき地で、「地域のニーズに応えたい」と思いながら働いてきました。たくさんの苦労もありましたが、今となってはよい思い出ばかりです。そして、これからは、地域のニーズに応えられる医療を提供できる医師を育てていきたいです。「地域のニーズに応える医療がしたい」と思う方がいらっしゃいましたら、ぜひ、一緒に頑張っていきましょう。