目の前にある、助けなければならない命のために
地域医療振興協会 女川町地域医療センター今野 友貴
経験を生かしながら地域で活躍する小池宏明先生のストーリー
このページに掲載されている情報は2017年12月27日取材当時のものです
日光市民病院
小池 宏明自治医科大学を2期生として卒業。1期生たちとともに、地域医療振興協会に創成期から関わる。協会に入職し、病院の立ち上げをはじめさまざまな形で地域医療に貢献。その経験から地域医療の根幹となるのは「人」だと語る。
私が医学の道へ進むきっかけは、父からの勧めでした。
高校3年生当時、私は医学以外の方面に興味があり、何となくそれを目指していました。
そのような中、父が自治医科大学の受験申し込みの資料を持って帰ってきたのです。「お金のかからない大学があるぞ!」と言って帰ってきたかは定かではありませんが、学生全員に就学資金貸与制度があるのは、大変魅力的でした。
医師になりたいという強い思いはなかったのですが、忌み嫌っていたわけでもなかったため、父の勧めるままに受験し、幸運にも合格し、2期生として自治医科大学に入学しました。
入学してまず驚いたことは、1期生の何事においても情熱的なところでしたね。
例えば、将来の自分の医師像への関心やへき地医療に対する問題意識の高さなどでした。
一方、私といえば、具体的な医師像などは分からず、医師になれば、病気の患者さんを診て治療するという当たり前のことを漠然と思い浮かべていました。ですから、へき地で医師として働くことは特別なことではなく、ましてや自治医大ですから、必要とされているところへ赴くことは自然な姿に映って見えました。
卒業後は、地元山梨の田舎の病院に勤務し、週1回山の中の診療所へ通ったりもしていました。当初医師が不足していた病院にも後輩たちが増え、そろそろ次の場所へ移動しようかと考えていた矢先、地域医療振興協会の吉新理事長からある移譲病院の話がありました。実は、その少し前に病院の立ち上げに失敗した経験があり、今度こそはという気持ちと恩返しという思いもあり携わることになりました。病院の立ち上げや運営の全てに関わり、時に理事長と共に大きな決断もしました。
このこと 〜 地域医療に情熱を持った多くの人と一緒に様々なことを解決していくこと 〜
は、誰にでも経験できることではなく刺激的でもありました。
病院の立ち上げで、いつも苦労することは「人」の確保です。だからこそ、そのときに助けてくださった方々のことは忘れられません。頭が下がります。その当時も、そして今も、地域医療は「人」で成り立っているのです。
2014年2月の金曜日、山梨が記録的な大雪に見舞われ、上野原も陸の孤島となりました。当時、私は毎週火曜日に上野原市立病院の外来をしていました。高速道路は通行止めが続いていたため、唯一動いていた(それも上野原の次の駅である四方津まで)電車で、日光から前日午後に出発し、夜には上野原駅に着き、雪が高く積まれた長い病院までの道を歩きました。その途中、唯一灯りがついていたラーメン屋さんへ吸い込まれました。そうしたら、病院の技師さんたちがいて声をかけられ、一杯のんでから病院へ向かい医局のソファーでぐっすり眠りました。
翌日は、いつものように外来を始めたのですが、この雪の中病院まで来るのに難渋したはずの患者さんから、「先生、よく病院まで来たねえ」と逆に褒められました。医者は患者さんによって育てられますね。
毎週、日光から上野原の外来に行っているため、人から「毎週大変ですね」などといわれますが、求められているうちがはなですね。多くの地方の市町村はあと10年もしたら人がいなくなってしまうかもしれません。そうなったら、求められることもありません。
これは音楽評論家吉田秀和が、晩年、妻を失い全く原稿を書く気力がなくなってしまった後、暫くして、原稿の依頼が来るようになったころ、しみじみと言った言葉です。それに続けて、「うぬぼれかも知れないが、ほんの少し世の中の役に立っているかもしれない」と。
私と同じ60代の医師のなかには、そろそろ一線を退くことを考えている先生もいらっしゃるかもしれません。しかし、医師という仕事は、それまでの経験を生かして活躍できる場がたくさんあります。そして、「求められているところで医師として働く」ということは、何物にも変えがたい喜びを与えてくれるかもしれません。