目の前にある、助けなければならない命のために
地域医療振興協会 女川町地域医療センター今野 友貴
自分・家族・住民が安心して暮らすために地域に真摯に向き合う並木宏文先生のストーリー
このページに掲載されている情報は2017年10月11日取材当時のものです
地域医療振興協会 与那国町診療所
管理者(兼)診療所長
長野県出身。2006年宮崎大学卒。2009年より地域医療振興協会に在籍、2010年に沖縄県立中部病院、OHSUの研修を経て、2014年より現職。へき地・離島での総合診療・家庭医療を基軸に、Science・Art・Humanityの3つの誠実な調和を重視した活動を展開。“職能を持つ一人の地域住民”として「支え、支えられる社会」のサポートに勤しむ。
※在任期間:2014年4月~2018年1月
私が医師を志した原点は両親の教えにあります。常日頃、両親から「優しさ」と「奉仕する心」を教わっていました。その中、私は自然と人の役に立つ仕事がしたいと思うようになりました。医療の世界に深く触れたのは高校生のときに祖母が入院したことがきっかけです。祖母に関わるたくさんの人たちと治療に尽力してくれた医療者の姿を見て、あらためて両親の教えを思い出しました。そして自分が思う最大の貢献を目指すため、「医師になろう」と決意しました。
その後私は宮崎大学医学部へ入学しました。卒業後は宮崎大学で初期研修を2年間行いました。研修後はへき地離島の地域に尽力したいと考え、北海道、青森、栃木、茨城、群馬、東京、神奈川など、全国各地で勤務や代診をしました。その中、さまざまな地域で診療をするにつれ、「自分と家族、そして地域の住民がずっと安心して暮らせる」仕組みづくりに貢献したいと思うようになりました。特にへき地離島地域に住む住民の想いを受け活動する存在になりたいと考えました。地域医療のメッカともいわれる長野県佐久市に生まれたことも関係しているかもしれませんが、医師を目指した当初からの変わらぬ志です。へき地・離島へ赴き、住民のために医療を行うのは私にとって特別なことではありませんでした。
地域医療に尽力する上でさまざまな選択肢がありましたが、家族が出来ると、行政と恊働しながら一住民として地域医療に関わるプロセスにより興味を持ち始めました。長く留まり生活を共にしながら住民生活にある想いを知り、それを受け活動することを目指しました。その中、何度か代診に訪れていた与那国島に赴任を決めました。自分でも思いがけないことでしたが、赴任のきっかけは診療所に近い「ナンタ浜」の美しさでした。美しく心地よいこの場所で住民として生活しながら、住民と共生・協働して医療を行うことを決意しました。実際に住んでみると、地域のみなさんと一緒に住んでいると実感する場面が多いです。例えば、船積みされた食品類を週に1回取りにいくことや、台風後の後片付け、町を挙げての長寿のお祝いなどでは、多くの方と生活感を持って活動します。こうした生活の大きなリズムに自然と組み込まれ一体化することで、この地域で暮らしを共有しているという気持ちが日々増していきました。この気持ちは医師として地域に関わるだけではわからなかったと思います。職業の視点から見た生活ではなく、まずはそこで生活している住民として暮らすことが大事であると感じました。
与那国島では「与那国織」という500年もの歴史がある伝統工芸が今も大切に受け継がれています。与那国織は島民の衣服であり、生活の糧であり、人同士の交流を促す文化産物です。ある時、診療所にきた機織り職人が、肩こりがひどくて作業ができず仕事を辞めないといけないかもしれない、という困りごとを聞きました。私は医師という職能をもった島民としてこの伝統工芸職人をサポートすることを考えました。その後、診療所のスタッフ、町役場の方、島外の療法士と連携し、安全で体を痛めないような作業姿勢や休憩時のセルフケア体操指導などの現場サポートを継続し、結果として地域の文化活動に貢献できました。町にも受け入れられたこの活動は、医療を適切に活用することで文化活動だけではなく、様々な住民活動を間接的にサポートしうると感じさせてくれました。
都市部、へき地離島に関わらず、どの地域でも、地域特有の大変さ、つらさがあり、特別な想いを抱えています。そしてそれは医療でも同様です。都市部の医療、へき地離島の医療はそれぞれの大変さ、つらさを持っており、それらを比べ合うことはできません。そして医師の立場も同様です。与那国島のようなへき地離島という環境にいる医療者は、孤独で不安になりやすいと感じるかもしれません。しかし、都市部に所属する医療者も、都市部だからこそ感じる不安と苦しみと向き合い、孤独を感じているのです。都市部とへき地離島、どちらの方が大変かということではなく、どちらも大変なのです。
こうした中、孤独感や不安に捉われないために、医療者自らで孤独になろうとせずに、互いに不安を共有することが重要と私は考えています。これは、都市部、へき地離島に関わらず、医療者には支えたい住民がいて、人に貢献したい尊厳(自尊心)があり、それを共有しあえる仲間と暗闇の中でも足元を照らしてくれる仲間がいる、と感じていられることが重要だと言い換えることもできます。幸い私にも、私の妻と子供、診療所の仲間、住民の方々からの支えがあり、また、恩師の小池宏明先生、敬愛する小林只先生が私の足元を照らしてくれるおかげで、へき地離島で医療を行い続けて来ています。どの方にも支え、支えたい人がいる限り、決して1人で医療を行うことはないのです。
医療は多くの人によって、支え、支えられた人間同士のつながりを基軸とした社会インフラの一つです。私たちが一体となり生活し協働して医療を作り上げようとする限り、医療は様々な想いが染み込んだ社会インフラとして住民生活とその歴史を反映し続けます。私はこれからも、多くの人にサポートを受けながら住民と地域に真摯に向き合っていきます。
医師として一人の患者さんを治療するということは、その患者さんの背景を知り、その生活と地域に貢献することです。しかし、これを実践し続けるのは容易ではありません。私たちは日々起こることに対して、科学者として現場現象の解析を行うだけではなく、その背景にある膨大で様々な問題に無制限・無期限に向き合い続けることになるからです。そこには、“それでも寄り添い続ける姿勢”と“貢献するための能力”が必要ですが、これらを発揮する主体である医療者たちも疲弊してきているのが現状です。
私も離島赴任中に、自尊心が低下し、踏み出したい一歩をなかなか踏み出せない時期がありました。その際、多くの住民と仲間から支援を頂き、歩みを開始した経験があります。私はこの経験をもとに、特にへき地離島の医療者の自尊心を高める活動を展望しています。それは、様々な現場にいる医療者の“first follower”として関わり、地域へ向かい続ける人の一助となる活動です。実際に、与那国町診療所赴任中の約4年間で、離島医療に関心のある100名以上の学生・研修医・若手医師の研修受け入れと、遠隔地にいる若手医師のサポートをしてきました。こうした取り組みが地域で医師を育てる活動にもつながるのですが、やはり、彼らが大切にしてきた想いやこれからの想いを聞くと、人のあたたかさを感じ、その想いを続けられるようにサポートしたくなるのです。誰かのために貢献したい気持ちを誇らしく感じることができるように、その誇りを仲間と高め合えるように、医療者自身にも寄り添い続けたいと考えています。
地域のみなさんとは長い時間を過ごすことで多くのつながりができました。道で立ち話をし、運動会で一緒にご飯を食べ、商店で出会い、一緒に掃除をし、時には子供の面倒を見てもらい、日常生活の中で助けてもらう。そして地域に流れる時間を一緒に感じる。私にとっては、そんな何気ない時間のすべてが住民の方との大切なエピソードで時間になっています。肩の痛みで受診した患者さんが「先生の子どもを抱くために治療してほしいです」と言ってくださったときは医療者としての格別な嬉しさがありましたが、その後も続くその方とのつながりは一層嬉しいつながりになっています。
こうした多くのつながりによって出来た“自分、そして家族が地域とともにある”という感覚をとても心地よく感じています。それは地域住民として住んでいたからこそ生まれた自然な感覚だからかもしれません。今後も、理想の地域医療の形を住民と協働して作り上げていく志を胸に、どんな時代がきても、どんな世界になっても、住民と共に歩み続けていくことを展望しています。