目の前にある、助けなければならない命のために
地域医療振興協会 女川町地域医療センター今野 友貴
地域医療のあるべき姿に挑み続ける吉野淨先生のストーリー
このページに掲載されている情報は2017年12月06日取材当時のものです
地域医療振興協会
石岡第一病院 院長
自治医科大学を第1期生として卒業。研修後、神奈川県内の病院や診療所で勤務し、医療支援という形でエチオピアに赴任した。帰国後は病院の勤務を経て、地域医療振興協会設立の中心メンバーとして尽力。現在も、協会初の直営病院「石岡第一病院」の院長として地域医療の最前線を担っている。
私が「命」について思いを馳せるようになったきっかけは、幼いころに祖母を病気で亡くしたことだと記憶しています。当時8歳だった私にとって、それは衝撃的な出来事でした。そのときの記憶はその後もずっと心に残り、いつしか「命を救う仕事ができたら」と考えるようになりました。
しかし最初は「命を救う」ことに憧れていただけで、医師になりたいと思っていたわけではありません。私には医師の親類も知り合いもおらず、正直なところ医療の世界についてはなにも知りませんでした。医師という職業についても漠然と認識していた程度です。
私が医師の道へ進むことを決めたのは高校3年生の冬になってからのこと。進路の意思決定が差し迫ったときに、自治医科大学が新設されることを知ったのです。
「これはチャンスだ!新しくできる大学ならきっと倍率も低いだろう」
私はそんな気持ちで自治医科大学の受験を決意したのです。
私は晴れて自治医科大学に合格し、第1期生として入学しました。学生時代には当時の学長であった中尾喜久先生や、髙久史麿教授(現地域医療振興協会会長)、細田瑳一教授(現:榊原記念病院理事長、地域医療振興協会理事)にとても懇意にさせていただきました。そして、私が人生でもっとも影響を受けたといっても過言ではない、吉新通康先生との出会いもありました。
吉新先生と私は同じ自治医科大学第1期生。出席番号が前後だったので寮の部屋も隣同士でした。気がつくと仲良くなっていて、一緒に麻雀をしたり軽音楽部をつくったり、宇都宮のご実家に遊びに行って、お母様にカレーを作っていただいたことはいい思い出です。
自治医科大学を卒業してからは、川崎市立川崎病院で研修を行い、その後は神奈川県内の病院や診療所で勤務していました。そんな頃、神奈川県と日本国際ボランティアセンターがタイアップし、大規模な飢餓が発生していたエチオピアで医療支援を行うというプロジェクトが立ち上げられました。私はこのプロジェクトで、看護師2名とともにエチオピアに派遣されることとなったのです。
片言の英語しか話せませんでしたが、少しでも多くの患者さんを助けたい、と毎日必死に診療にあたりました。エチオピアは野生の動物がそこら中にいるような環境でしたから、患者さんの症状も日本でみるものとは大きく異なります。たとえば、ハイエナに襲われて頭がパックリと開いている子どもが来たこともありました。
エチオピアは決して便利な生活環境とはいえません。しかし、コーヒー豆の原産地として知られるだけあり、やはりコーヒーは絶品。満天の星空を見ながらのコーヒータイムは至福の時間でした。
そしてなんといってもヘリコプターに乗ったことはよい思い出です。現地でポーランドのヘリコプターチームの医師と仲良くなり、エチオピアの広大な大地を遊覧飛行しました。普段勤務している病院の真上を旋回してもらったときは、まるで映画のようで、非常に興奮したことを覚えています。
エチオピアには半年くらい滞在しましたが、仕事だけでなく現地の生活をはじめ、さまざまな体験ができたと思います。
エチオピアでの医療支援はとても思い出深いかたちで幕を閉じました。なんと私は帰国するタイミングで赤痢にみまわれたのです。
帰国の飛行機のなかで、私は突然腹痛に襲われました。経由地のイギリスに友人がいたので病院に行くと、赤痢と診断されそのまま入院する羽目になりました。
原因はおそらく「水」です。実は、発熱後の病み上がりの休日にエチオピアで標高の高い山を上り下りして遺跡に向かい、数時間の強行軍にすっかりと疲れ果てた私は、ついつい川の水を汲んでゴクゴクと飲んでしまったのです。
最後の最後まで、思い出深いエチオピアでの医療支援でした。
エチオピアから戻った後、自治医科大学に戻ることも考えましたが、ご縁があって実家の近くに新しくできた聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院に勤務することになりました。ここでは約4年間勤務し、1年間は救急科、そして3年間は消化器内科を経験しました。
大学で働くことが初めてだったので、毎日新鮮で面白いと感じました。しかし、その一方でこれからの自分のキャリアについて常に悩んでいました。
自治医科大学の卒業生には、卒業後自分の出身都道府県へ戻り、地域医療に従事する約束があります。その仕事を追えたあとに、それぞれの目指すビジョンに向けて歩きはじめるのです。しかし、我々は第1期生。サンプルがないなか、みな漠然とした不安を抱えていました。
自治医科大学の卒業生たちは次第に、「責務を果たした後の医師が働ける、地域に根ざした病院を経営したい」と、自分たちで病院の経営を目指すようになりました。
その流れに後押しされ、1986年、地域医療の支援・振興を目的として地域医療振興協会が設立されました。設立の中心メンバーとなったのが、地域医療振興協会 現理事長の吉新通康先生です。吉新先生と私は、ともに多角経営を目指して、宅地建物取扱主任者(現:宅地建物取引士)や旅行業務取扱主任者といった資格を取得しました。
しかし、せっかく協会をつくったものの、病院経営を具現化できる場所がありません。そのような状況のなか、茨城県にある石岡第一病院を創立した方から「病院を譲渡してもいい」とのお話をいただきました。私たちとしては渡りに船です。「是非挑戦したい」と、理想を実現するため、資金集めに奔走しました。そして、私たちは幸運に巡り合うことになります。なんと自治医科大学の卒業生が一人1,000万円ずつ債務を負ってくれるというのです。この時の心意気のおかげで、今の地域医療振興協会があると感謝しています。
こうして地域医療振興協会初の直営病院「石岡第一病院」が開院しました。
1992年、吉新先生の異動にともなって私は石岡第一病院の院長となりました。それから25年の歳月が経ちましたが、私は石岡第一病院を「地域に存在しているだけで地域に貢献している」病院だと自負しています。
一般的な病院の機能を果たすのはもちろんのこと、訪問診療・看護や、介護支援事業所の運営など、患者さんの一生を考えたトータルケアをできることを大切にしてきました。また地域全体のことを考え、医師が不足している地域には、代診を派遣することもあります。は、私にとっても非常に誇らしいことです。今後もこの地で、地域のみなさんに必要とされる医療を届けていきたいと思っています。
研修医時代、「患者さんはなにかを求めて病院に来るんだ。だから私たちは患者さんに対してできることをみつけて行わなければならない。」と教わりました。当たり前といえば当たり前のことですが、私の脳裏にはこの言葉がずっと残っています。
「患者さんの期待に応えたい」
その想いは、どんな場所で働いていても変わりません。
もしかしたら患者さんの期待に応える方法は他にもあるのかもしれません。「あのとき違う選択をしていたら、まったく違う場所で違うことをしていたのだろう」と思うこともあります。しかし、自分の選択に後悔はありません。嬉しいことに現在では私の長男も医師となり、月に一度、石岡第一病院で働いてくれています。
長男と一緒に、石岡の地域のみなさんに医療を届けている今を、私はとても幸せに感じています。